【要約】意志と表象としての世界【第四節】

本の第四節を要約しました。

時間は、根拠の原理が形をなしているものであり、それがすべての計算と勘定の基礎となっています。このような形態化を認識することで、時間の本質を完全に理解できるでしょう。時間とは、根拠の原理が形成した形態だけで、それ以外の特徴はありません。時間の根拠の原理は継続性であり、継続性が時間の全ての本質です。

空間の根拠の原理は、部分が互いに影響し合うことの可能性を示し、それを位置と呼ぶ。空間の本質は、この位置関係であり、根拠の原理を理解することで、空間を完全に理解することができる。これは幾何学全体の内容である。

根拠の原理の形態化は、時間と空間、物質の内容を支配している。これを認識した者は、時間や空間、物質の本質を完全に理解したことになります。物質は、因果性によって存在し、働きによって空間や時間を充たします。

物質は直接の目に見える形で他の物質に影響を与え、それが直感を引き起こします。物質は、そのような直感の中だけ存在します。物質同士が影響を与え合うことができるのは、影響を受ける物質がまた他の物質に影響を与える時だけで、その結果が現れるのもそのときだけです。そして、原因と結果は物質の本質です。

物質は、他の物質に影響を与えることで、直感を引き起こします。物質の存在は、物質の働きによってのみ認識され、その本質は因果関係に基づいています。物質は相対的であり、時間や空間の内部にのみ妥当する関係に基づいています。

物質は時間と空間がないと表現できないが、時間と空間は物質がなくても単独で直観的に表現できる。物質の本質は働きかけること、因果性にあり、それは時間と空間の両者が物質の本質を決定することになる。

時間と空間は、物質などがなくても、それぞれ独立して直感的に表現することができるが、物質は時間と空間がなければ表現できない。物質が行う作用は物質の全ての存在の本質であり、必ず変化に関連し、時間の決定に関連している。しかし、時間と空間は、物質の前提だけではなく、物質の本質を決定するために両者が一緒に作用する。

因果の法則が意味を持ち、必然性を持つのは、空間と時間の一定の場所と時間における状態が変化するためである。空間と時間が相互に関係しあって、規則が存在し、変化はその規則に従って発生しなければならない。因果の法則は、時間の中での継続ではなく、空間に関連した変化を規定します。変化は、一定の場所に存在するだけでなく、一定の時間においても場所に存在します。

物質は時間と空間の特性を同時に持っている。そして、変化は時間と空間が一致していることによって起こる。物質は時間と空間を統一しなければならない。 物質は時間と空間の分割可能性を無限に持っている。

物質を通じて、時間だけでは成り立たない「同時存在」と、空間だけでは成り立たない「先後の区別」が生じることがわかる。

現実には同時に存在する複数の状態があり、それらが継続可能にすることが本質である。なぜなら、継続するものが変化する反対のものと同時に存在しているからである。また、変化するものの中にも継続するものがあるため、変化に対して性質や形態が変化すると考えられる。

空間だけの場合、世界は変化しなく、動きも継続も起こらない。時間だけの場合、すべてが不定期で、固定も同時性もなく、結果として持続もなく、物質も存在しないことになる。

空間と時間の結合によって物質が生まれ、それによって持続性が生まれ、そして状態が変化しても実体は変わらないことが分かる。

物質は、時間と空間の一体化が必要であり、それらを持っている。形態との関係から物質が空間を基礎にしていることが分かるが、移り変わりは時間に関わるため、物質は時間も必要である。これによって物質は固定不変であることが分かる。空間が確実であることから物質も確実であることが導き出される。

物質は時間と空間が一体化しているため、両者の特徴を持っている。物質が空間を基礎にしていることは形態から明らかだが、物質が時間を基礎にしていることは性質から明らかであり、それが現象を引き起こしている。性質は常に因果関係であり、他の物質に影響を与えるため、変化が起きる。この変化は時間の概念に関連しているが、その規則は空間と時間の両方に関係している。物質の状態は、因果の法則によって決定されている。

物質の根本規定は、自然に存在することを基礎としている。そして、この基礎から、物質には不可入性、延長性、固定性、可動性などの特性があることがわかる。ただし、重力はどの物質にもあるが、これは後天的な現象だと考えられる。しかし、カントは「自然科学の形而上学的基礎論」で、重力を自然に存在するものとして捉えている。

客観は、主観の表現として存在し、それぞれの表現は主観の限定された能力と対応している。時間や空間も、主観の限定された能力と対応している。カントはこれを純粋感性と呼んだ。

客観は主観の表現であり、主観に対応して存在する。 特定の表現は、主観の限定された作用に対応して存在する。 時間と空間、そして物質と因果性は、主観の側に相関して対応している。それらは感性であり、悟性は因果性を認識することであり、それが悟性の唯一の機能である。 すべての現実は悟性に対応し、悟性を手段として、悟性の内部に存在している。

悟性は、現実世界を直接認識することで表され、それは結果から原因を認識することに基づいている。しかし、原因を認識するための直接の出発点は身体の反応であり、それがなければ直観は不可能である。そのため、身体は、主観にとっての直接の客観であり、他の直観はそれによって媒介される。

動物の身体が体験する変化は、直接的に認識され、つまり知覚されます。この結果が直接的に原因に関連付けられることで、その原因は直接的に視覚化されます。この関係は抽象的な概念を使用した推論ではありません。反省によって起こるのでも、恣意的に起こるのでもありません。この関係は直接的で必然的で確実です。

動物的な身体の経験する変化が直接的に認識され、知覚されることによって、その原因が客観的に直接直観される。この結果Wirkung(作用、働き)がただちに原因に関係づけられることによって、その原因は一つの客観として直観されることになる。この関係は直接的で、必然的で、確実である。これは純粋悟性の認識方法で、純粋悟性がなければ直観は成立しない。直接の客観(身体のこと)の受けた変化についての植物的な意識が残るだけである。

悟性によって、知覚される変化が直接的に原因と関係づけられることで、世界が直観される。この直観は、動物的な身体を通じて媒介され、純粋悟性に基づく。純粋悟性がなければ、世界は直観することができない。直観される世界は、時間や空間に基づき、物賡として永続する。この世界は、悟性によって存在し、また悟性に対しても存在する。

私は「視覚と色彩」という論文の1章で、悟性が感覚データから直観を作り出すことを論じました。子供が直観を学ぶのは、複数の感覚から得られた印象を互いに比較することで、そしてこの方法だけが多くの感覚現象を説明できます。二つの眼で見ても物が一つしか見えないこと、視点を変えると物が二重に見えること、その他の感覚器官の変化が引き起こす錯覚もこの方法で説明できます。

著者は以前に、視覚と色彩についての論文で、感覚データから悟性が直観を作り出すことについて詳しく論述した。子供は直観を学ぶために、さまざまな感覚から受けた印象を比較し、多くの感覚現象を説明することができる。ただし、著者は自分が書いたものを引用するのを嫌うため、この論文で同じことを再解説する代わりに、以前の論文の参照をお願いする。

子供たちが見るのを学ぶため、手術で眼が見えるようになった人が見るため、二つの眼で見たものが一つに見えること、感覚器官が通常の位置からずれたときに一つのものが二つに見えること、色彩は眼の働きによるものであり、外部の対象にあること、立体鏡を使うことができることなどを証明している。

すべての直観は感覚的ではなく知的であり、それは結果から原因を悟性的に認識することである。それは因果律を前提としている。すべての経験は、最初かつ全体的な可能性から考えられ、因果律の認識に依存している。これはヒュームの懐疑主義とは異なる主張である。

因果性の認識は直観の中に含まれており、すべての経験は直観の領域にあります。また、因果性の認識は完全に独立しており、経験から前提条件とされており、経験を前提としていません。これを証明するためには、『根拠の原理について』第二十三節に詳細に説明した方法および、カントが試みた方法では説明できない。