【要約】意志と表象としての世界【第五節】

本の第五節を要約しました。

第五節

直感は因果性の認識によってもたらされる。一方で、客観と主観との間には、因果の関係が成り立たない。
因果性は客観同士の間でのみ成り立つ。

主観と客観の間には根拠の原理に基づくどのような関係も成立しない。実在論や観念論の主張はどちらも正しいとは証明されていない。懐疑論がこれらの独断論に対して勝利を収めた。

因果律は、すでに前提条件として直観と経験に先行しており、経験から学習して得るものではない。同様に、客観と主観はすでに第一条件として認識に先行しており、根拠の原理にも先行している。根拠の原理はあらゆる客観の形式であり、常に客観を前提としている。主観と客観の間には因果関係は存在しない。

根拠の原理とは、客観的な存在の本質的な形式を描き出すことである。客観は自分に必要な相関者として主観を前提にしているが、主観は常に根拠の原理の外にある。

客観は主観を前提としているだけであり、主観から独立した客観が存在するようなことはあり得ない。

因果律も経験に基づいて仮定されるものだ。

客観と表象は同じものであり、直観的な客観はその働きである。主観の表象の外に客観が存在することを要求するのは意味がなく、矛盾である。客観を直観し、その働きを認識することが客観を汲み尽くすことにほかならない。

時間と空間の中で直観された世界は、純粋な因果性であり、実在しており、完全に現れているものであり、因果律に基づき連関しており、全面的に表現される。それが経験上のその世界の実在性である。

世界は因果性に基づいて、悟性(認識)によってのみ存在し、悟性に依存していることが分かる。全ての観察は表象であり、主観に制約されているため、外的世界は先験的な観念性を持っているとも言える。

全客観界は実在するが、それは主観からの独立ではなく、表象として現れる。そして、全客観界は理解可能で、健康な悟性にとっては明瞭な意味を持つものである。

客観界の実在性について論争することは、根拠の原理の誤用に基づくことであり、意味をなさない。根拠の原理は、あらゆる種類の表象を結合しているが、表象を主観と結びつけることはしない。また、客観にとって根拠であるにすぎないものと結びつけることもなく、客観だけが根拠であることを確認することが重要である。

外的世界の実在性をめぐる問題は、根拠の原理を適用する際の誤りや、概念や抽象的な表象と実在的な客観を混同して考えることが原因で起こる。

根拠の原理は、概念や抽象的な表象を支配している。そして、それらが判断になっているときに、真理や妥当性、全存在を手に入れることができる。また、根拠の原理は実在的な客観を支配しているが、それは認識の根拠ではなく、因果律によって生成する根拠としての支配である。

実在的な客観は、それぞれ(の人)が生成したものである理由で、根拠の原理に対し負債を支払い終えていると考えられる。だから、認識根拠を要求することは正当ではなく、意味もない。直観的な世界は、観察者に対して誤謬も真理もなく、単にそれがそうであるだけであり、反省や疑念を引き起こすことはない。

直観的な世界では、感覚と悟性に対して、世界はそのままに見えるように開かれている。外の世界は素朴な真実を持って自分を示し、因果性の原理に従って展開している。外界の実在性についての問題は、考え方の誤りから来ていると考えられ、その問題の意味を理解すればすぐに解決することができる。

外界の実在性をめぐる問題は、根拠の原理、主観と客観の関係、感性的な直観の本当の性質について考えることで、問題を解決することができる。

ところがもう一つ別の起源をもった問題がまだ残っている。それはまったく別の、経験的なもう一つの起源をもった問題である。
われわれはたびたび夢を見る。
人生全体が夢なのではないかという疑問、夢と現実を明確に分ける明確な目印があるのかという疑問、夢が現実であるか幻想であるかという疑問がある。

夢の直観が現実の直観よりも生き生きしてないという言い方は考えに値しない。夢と現実を比較することができるのは、夢の記憶と現実だけである。

カントは「夢と現実を区別するためには、因果律に基づいた連関があるかどうかが重要だ」と主張しています。彼は、夢の中の出来事も現実の中の出来事と同様に根拠の原理に従って連関していると考えています。しかし、カントの考えには短所があり、夢と現実の間には連絡の橋が断ち切られているため、両者を区別するのはその点においてであると言い直すことができます。

われわれは夢と実際の起こったことを区別するのは困難だが、体験した出来事を単純に夢だと断言しないものだ。

現実と夢を区別する方法として、通常、経験的な目じるし、例えば「自分が目が覚めている」ことを使うことは適切でない。現実と夢を区別する唯一の目じるしは、「自分が目が覚めている」ことで、夢の中の出来事と現実の出来事の因果関係に明確な違いを感じることができる。

ホッブズの「リヴァイアサン」の第二章で行われた指摘が、夢と現実を区別することが困難であることを示している。特に、昼間の服を着たまま寝た場合や、頭がいっぱいで覚醒時と同時に夢の中に心が占領されているような状態になった場合には、しばらく後に夢を現実のように思ってしまいやすいとされる。

目が覚めていることを認識できない状態で夢を見る場合、夢と現実が混同して識別が難しくなる。カントが提示した目じるしは適用できるが、夢と現実を明確に区別することは難しい場合がある。

実生活と夢は類縁性があり、過去にも多くの偉大な人々がそれを認め、唱えてきたことである。夢は現実の世界を表すために比喩としてよく用いられている。

カルデロンはこのような考え方にいたく感動し、いくぶんか形而上学的な趣きのある戯曲『人生は夢』のなかでこの考えを表明しようとした。例えるなら実生活と一貫した夢とは、同じ一冊の本のページなのである。脈絡を辿って本を読むことが、現実生活とよばれるものにあたる。

実生活と夢は同じ本のページであり、読んでいる方法が順番に沿って連続的でなくとも、それらは同じものである。

夢は現実生活とは区別され、それを判別する方法は自分が目が覚めていることだが、夢は現実生活の一部を持っている形式的なものである。夢にも自らの連関性があるため、現実生活と同じように重要なものと言える。

夢と実生活の本質には定まった区別がなく、人生は長い夢だという詩人たちの言葉が正しいと考えられる。外部から見れば、夢は独立して存在しており、経験的な起源があるが、思考的な起源をもう一度見直した場合には、夢と実生活が結びついていることが分かる。

先述したように、根拠の原理についての誤用、主観と客観の間での適用、生成の根拠の原理と認識の根拠の原理の混同が問題の思弁的な起源であった。

外部の実在性についての問題は根拠の原理の誤用や混同が原因であり、問題の深い部分には本当の起源があると考えられる。

この問題は、過去には適切に表現されてこなかったが、私はこの問題の核心的な意味を、次のように表現することを試みる。「この直感的な世界は、私の表現だけではなく、他の何かでもあるのか?私が単に表現として意識しているこの世界は、私が二重に意識している自分の身体と同じように、一方は表現であり、もう一方は意志であるのか?」この問題をもっと明確に説明し、肯定的な答えを出すことが第2巻の内容となる。

夢と現実生活の違いは明確ではなく、人生は長い夢だと言われている。これらの解釈に基づき、本書の第3巻、第4巻でさまざまな推論が行われる。

外界の実在性をめぐる問題の起源が、根拠の原理の誤用にあったことは発見されていた。

外界の実在性をめぐるこの問題の一番深いところでなにかまっとうな思想や意味が本当の起源としてひそんでいるはずだ。
一番深いところに問題の本当の起源がある。
それを表現する際に誤ったと考えるべきだろう。

いうまでもなくそうである。 この問題は、これまで適切に表現されるすべを知らなかったが、 わたしはこの問題の一番奥にある意味、もっぱらそれだ けの表現として、次のような表現を立ててみる。
この直観的な世界は、わたしの表象であるということのほかに、さらに何であるのか?
わたしが表象として意識しているこの世界は、一方では表象であり、他方では意志であるのか。
この問題については第2巻でもっと明確に説明し、肯定的な答えをする予定である。それに基づいた推論が残りの部分、第三巻と第四巻になる。