【要約】意志と表象としての世界【第八節】

本の第八節を要約しました。

第八節

私たちは直観の世界から、考える世界へと進みます。直観の世界は太陽のように明るく、わかりやすいです。そこでは疑問や迷いはありません。直観に従った芸術作品は本物で、偽物にはなりません。
しかし、考える世界が始まると、理論では疑問や誤りが生じ、実際のことでは心配や後悔が生じます。直観の力は大切ですが、考える力も大切です。両方を大事にしましょう。

直観の世界では、誤りがちょっとした影響を与えるだけですが、抽象的な考えの世界では、誤りが長い間影響を持ち続けることがあります。誤りは戦いの相手で、真理を見つけることは大変ですが、見つけた真理はずっと残ります。
人間は他の生き物と違って、考える力があります。この力を使って、私たちの行動は動物とは違ったものになります。直観も大切ですが、考える力で誤りを見つけて、真理を追い求めましょう。

人間は動物と違って、過去や未来を考えることができます。動物は瞬間の欲求を満たすだけですが、人間は未来を心配したり計画を立てたりできます。人間は言葉を使って考えや知識を伝えることができ、それが理性の道具です。人間は死がくることを知っていて、だから哲学や宗教があります。しかし、哲学や宗教は必ずしも正しい行いをもたらすとは限りません。すべての人間に共通する特別な精神力があり、それが理性です。理性は人間が動物より優れている理由で、人間は理性を使って行動することができます。

哲学者たちは、理性について話し合っています。理性には色々な機能があると言われていますが、実はそれらは1つの簡単な機能にまとめられるという考えがあります。その機能とは、概念を作る力です。これがあるおかげで、人間は動物とは違う生活ができます。また、理性と啓示という対立は哲学には関係がなく、混乱させるだけです。
しかし、過去の哲学者たち、例えばロックやライプニッツは、理性について完全に理解できず、混乱していました。また、カントも理性の本質について混乱させる考えを持っていました。これらの考えが広まると、知識が曲がったり、分かりにくくなることがあるのです。
理性の本当の機能は、概念を作る力だけです。これを使うか使わないかで、理性的なことや非理性的なことが決まります。理性を理解することで、わかりやすく説明できます。

【要約】意志と表象としての世界【第七節】

本の第七節を要約しました。

第七節

これまでの考察では、表象から出発し、客観と主観の両方を含んでいます。時間、空間、因果性は客観に属しますが、主観にも関係があるので、アプリオリに認識できます。これらは主観と客観の共通の境界です。
従来の哲学は、客観か主観から出発していましたが、われわれの考察は、根拠の原理を客観だけに適用し、客観と主観の関係には適用しないという新しい方法です。
同一哲学は、客観と主観の対立に関与せず、理性=直観で認識される第三の絶対者を出発点とします。しかし、ショーペンハウアーは理性=直観を持っておらず、同一哲学の立場は完全には理解できないと言っています。

この哲学は主客の同一性から始まり、二つの部門に分かれます。一つ目は先験的観念論で、主観から客観を作り出します。二つ目は自然哲学で、客観から主観を生み出します。しかし、この哲学は二つの誤謬を避けられず、両者を結びつけています。
さまざまな哲学は客観から始まり、物質や概念、時間や意志を基本要素としています。例えば、唯物論は物質を基本要素とし、因果律を使って進んでいきます。しかし、唯物論は最後に認識能力に達し、それが物質の一変容に過ぎないことが分かります。
物質や認識の問題を考える時、主観と客観の両方を考慮することが重要です。唯物論者は馬に乗って泳ぐ人のように、自分の力で全てを説明しようとしますが、それは正しくありません。

唯物論は、すべてのものを物質で説明しようとする考え方です。しかし、これは簡単にはできません。物質は私たちの頭の中で考えられるだけで、実際には主観的な認識によって制約を受けています。これは、物質は私たちが考えるよりも複雑で、すべてのものを説明することが難しいということです。
唯物論では、物質や元素を絶対的に存在するものとして考えますが、実際には主観の認識によって影響を受けています。物質は時間や空間などの形式を通して、私たちに与えられます。しかし、これらはすべて相対的に存在するだけで、絶対的なものではありません。
科学は、世界の本質には触れられないため、唯物論を完璧に実行することはできません。科学は表象にとどまり、表象と表象の関係を知ることしかできません。それぞれの科学は、独自の問題と原理を持っており、それらを通じて知識を得ていくのです。

自然科学は物質と因果の法則を扱い、物質の状態を理解しようとします。化学は元素を調べ、生理学は人間の体を調べる分野です。自然科学は物質を最初の化学的状態に還元しようとしますが、それは困難です。化学者は元素の数を減らそうとしていますが、無限に進むことは難しいです。また、有機物を化学的なものに還元するのも困難です。自然科学は唯物論ですが、主観がなければ客観はないという命題により、唯物論は問題があります。自然科学は物質を理解するために努力していますが、困難が多い分野です。

物質は時間の中で段階的に進化していきます。最初に無機物があり、次に植物、魚、陸生動物、人間と現れました。最初の認識する動物が登場したとき、世界全体の存在がはじめて認識されました。しかし、その動物も、前の物質や生物の因果関係に依存しています。
この話には二つの見方があり、どちらも必然的で、矛盾しているように見えます。一つは、世界の存在が最初に認識する動物に依存しているという見方。もう一つは、最初の動物も長い因果関係の鎖に依存しているという見方です。
この矛盾は、時間や因果関係が物自体にはなく、現象に属していると考えることで解決できます。つまり、世界は表象としての外的な側面だけでなく、物自体という内的な側面も持っています。この物自体の側面を、意志と呼ぶことができます。

私たちが認識する世界は、表象の世界であり、最初の認識が始まるときから存在します。認識がなければ世界も時間も存在しません。しかし、時間は始まりを持っているわけではありません。時間は因果性と関係し、過去と未来の両方に無限に広がります。最初の現在と過去は、認識する主観に依存しています。
クロノスはギリシア神話の時の神で、始源を持たない時間を表しています。彼は父を去勢し、神々と人間の時代が始まりました。私たちが見る世界は、主観と客観が密接に関連し合っています。真の世界の本質を理解するためには、主観と客観のどちらかではなく、別の要素を見つける必要があります。
主観から客観を生み出す哲学もありますが、フィヒテの哲学はその逆で、主観から出発して客観を生み出そうとします。しかし、彼の哲学は真の価値や内容が乏しく、詐欺にすぎないとされています。

哲学者は、混乱に出会い、それを解決しようとする人です。本物の哲学者は世界そのものを見て混乱しますが、偽の哲学者は本や理論から混乱します。哲学者フィヒテはカントの考えに興味を持ちましたが、彼は主観から出発することに重きを置いてカントの考えを十分理解できませんでした。カントの考えでは、根拠の原理は絶対的な真理ではなく、現象にだけ当てはまる相対的なものです。客観と主観は、一方がもう一方に依存する関係であり、どちらも完全に相対的です。物自体や世界の本質は、主観や客観のどちらでもなく、関係性の外部に求められるべきです。

フィヒテの哲学では、永遠の真理が世界の根拠となり、自我が客観の根拠となっています。古代の唯物論は客観から始め、フィヒテの哲学は主観から始めますが、どちらも相手を前提としています。フィヒテは、自我が客観を生み出す原理に名前を付けていないが、それは空間の存在の原理と言えるかもしれません。彼は根拠の原理が客観の形式であることを見落としています。主観と客観は相関関係にあり、どちらも相手を前提としているため、一方から始めることは難しいです。この話は小学生にもわかりやすいように、フィヒテの哲学は自分と世界の関係を考える方法で、自分から世界を理解しようとしていると説明できます。

本書では、主観と客観から出発せず、表象を出発点にしています。表象の基本形式は主観と客観への分裂であり、客観の形式は根拠の原理です。時間、空間、物質、概念はそれぞれ特定の部分を支配し、表象としての世界は全面的に相対的です。これは別の世界の側面を求めるべきことを示唆しています。
人間だけが持つ表象の部門は概念であり、相関物は理性です。これは悟性と感性と似ていますが、悟性や感性はすべての動物に備わっていると考えられます。

【要約】意志と表象としての世界【第六節】

本の第六節を要約しました。

第六節

本文では、すべてを表象として捉え、自分の身体も含めて認識の問題として扱います。抵抗感は一時的に抑え、研究を進めることで完全な認識に至ることを期待します。身体は直接的な客観であり、因果律の適用に先立ち、最初のデータを提供します。悟性は結果と原因の関係を認識する主体であり、感性的な感覚がその出発点となります。

認識できる世界は、物体間の相互作用と悟性、そして動物の身体の感受力が条件となります。悟性を持つ動物は、直接的な客観としての身体を通じて世界を認識し、運動を行います。これが動物の本来の性格であり、すべての動物は悟性を持っていると言えます。

悟性は全ての生物に共通する認識能力で、因果関係を理解する力があります。悟性のレベルは多様で、理解の範囲も広範です。一方、理性は抽象概念を扱い、直接的な理解には貢献しません。重要な発見は悟性による直観的な認識に基づいており、推論は概念を明確化し説明できるようにする役割があります。

悟性の鋭さは自然科学と日常生活の両方で応用され、怜悧さと呼ばれます。しかし、概念の境界線を明確に引くことは難しい。悟性の機能が最も鋭いとき、自然現象から未知の原因を探求し、普遍的な法則を理性に提供する材料として与えたり、複雑な機械を考案したりすることができます。また、人間の心理的動機づけにも適用され、策略を見抜いたり他人を操ったりすることもできます。

悟性の欠如は愚鈍と呼ばれ、因果律の応用に対する鈍感さを示します。愚か者は自然現象の連関を見抜けず、魔術や奇跡を信じがちで、共謀している人物たちに気づかない。悟性が欠けているため、因果律を適用する鋭さや敏捷さがなく、他人からの忠告や判断の裏に隠された動機にも気づかない。精神病院の白痴の少年は悟性が欠けており、反射という直接的な因果性を理解していなかった。

悟性の鋭さは人間や動物種間で異なりますが、すべての動物には悟性が存在し、動機に従った運動が可能です。聡明な動物は、概念や理性の助けなしに悟性だけで多くのことを達成できることを示しています。

人間の悟性と理性は相互に助け合っており、動物の悟性の現れ方は時に期待以上だったり期待以下だったりします。期待以上の例としては、重い橋を渡るのを拒む象が挙げられ、期待以下の例は薪を追加して火を維持することを知らないオランウータンがあります。また、子犬は自分の体重がもたらす結果を予見しているものの、特殊なケースを経験から知っているわけではありません。

動物の悟性を判断する際、本能と悟性を混同しないよう注意が必要です。本能は悟性と理性とは異なりますが、似た結果を生むことがある。本書では、悟性の欠如を愚鈍、実践的な理性の欠如を痴愚、判断力の欠如を単純な愚かさ、記憶の欠如を狂気とみなすが、それぞれの部分で検討することになる。

真理は理性による正しい認識であり、実在は悟性による正しい認識です。真理に対立するのは誤謬で、実在に対立するのは仮象です。仮象は、同じ結果が異なる二つの原因から生じ、悟性が原因を区別できない場合に現れます。悟性はその際、一般的な原因を仮定しがちです。

悟性は反省的や論証的ではなく、直接的で一直線な活動です。誤った仮象が直観されることがありますが、理性の推論では取り除けません。理性は誤謬を防ぐことができますが、仮象には効果がないため、悟性と理性は完全に区別されます。理性は知ることができるだけで、直観は悟性の働きであり、理性の影響を受けません。

DB接続の自動構成を解除してSpringBootTestの単体テストを通す

Spring Bootでテストコードを書く。
テストクラスに@SpringBootTestを付与すればよいということだった。
DBが停止しているときにLocalContainerEntityManagerFactoryBeanの初期化に失敗した。

Web記事を血眼で探した。
DBを利用したテストについての記事ばかり。
的を得たものはほとんどなかった。
結果的になんとかなった。
下記2つの記事の合わせ技だ。

stackoverflow.com

stackoverflow.com

src/test/java/配下のどこかに配置

@Configuration
public class DataSourceConfig {
    @Bean
    public DataSource dataSource() {
        return Mockito.mock(DataSource.class);
    }
}

テストクラス

@SpringBootTest
@EnableAutoConfiguration(exclude = {DataSourceAutoConfiguration.class, HibernateJpaAutoConfiguration.class})
public class HogeTest{
    // テストコード 
}

Spring BootがAutoConfigureを採用しているので、
application.propertiesの設定値で自動構成してくれている反面、
設定を読み込む部分が隠蔽され、
どこに手を入れればよいかがわかりづらくなっているのだ。

それにしても、みんなハマるはずだが記事が少ないのが不思議だ。
という思いがあって書き残しておく。

【要約】意志と表象としての世界【第五節】

本の第五節を要約しました。

第五節

直感は因果性の認識によってもたらされる。一方で、客観と主観との間には、因果の関係が成り立たない。
因果性は客観同士の間でのみ成り立つ。

主観と客観の間には根拠の原理に基づくどのような関係も成立しない。実在論や観念論の主張はどちらも正しいとは証明されていない。懐疑論がこれらの独断論に対して勝利を収めた。

因果律は、すでに前提条件として直観と経験に先行しており、経験から学習して得るものではない。同様に、客観と主観はすでに第一条件として認識に先行しており、根拠の原理にも先行している。根拠の原理はあらゆる客観の形式であり、常に客観を前提としている。主観と客観の間には因果関係は存在しない。

根拠の原理とは、客観的な存在の本質的な形式を描き出すことである。客観は自分に必要な相関者として主観を前提にしているが、主観は常に根拠の原理の外にある。

客観は主観を前提としているだけであり、主観から独立した客観が存在するようなことはあり得ない。

因果律も経験に基づいて仮定されるものだ。

客観と表象は同じものであり、直観的な客観はその働きである。主観の表象の外に客観が存在することを要求するのは意味がなく、矛盾である。客観を直観し、その働きを認識することが客観を汲み尽くすことにほかならない。

時間と空間の中で直観された世界は、純粋な因果性であり、実在しており、完全に現れているものであり、因果律に基づき連関しており、全面的に表現される。それが経験上のその世界の実在性である。

世界は因果性に基づいて、悟性(認識)によってのみ存在し、悟性に依存していることが分かる。全ての観察は表象であり、主観に制約されているため、外的世界は先験的な観念性を持っているとも言える。

全客観界は実在するが、それは主観からの独立ではなく、表象として現れる。そして、全客観界は理解可能で、健康な悟性にとっては明瞭な意味を持つものである。

客観界の実在性について論争することは、根拠の原理の誤用に基づくことであり、意味をなさない。根拠の原理は、あらゆる種類の表象を結合しているが、表象を主観と結びつけることはしない。また、客観にとって根拠であるにすぎないものと結びつけることもなく、客観だけが根拠であることを確認することが重要である。

外的世界の実在性をめぐる問題は、根拠の原理を適用する際の誤りや、概念や抽象的な表象と実在的な客観を混同して考えることが原因で起こる。

根拠の原理は、概念や抽象的な表象を支配している。そして、それらが判断になっているときに、真理や妥当性、全存在を手に入れることができる。また、根拠の原理は実在的な客観を支配しているが、それは認識の根拠ではなく、因果律によって生成する根拠としての支配である。

実在的な客観は、それぞれ(の人)が生成したものである理由で、根拠の原理に対し負債を支払い終えていると考えられる。だから、認識根拠を要求することは正当ではなく、意味もない。直観的な世界は、観察者に対して誤謬も真理もなく、単にそれがそうであるだけであり、反省や疑念を引き起こすことはない。

直観的な世界では、感覚と悟性に対して、世界はそのままに見えるように開かれている。外の世界は素朴な真実を持って自分を示し、因果性の原理に従って展開している。外界の実在性についての問題は、考え方の誤りから来ていると考えられ、その問題の意味を理解すればすぐに解決することができる。

外界の実在性をめぐる問題は、根拠の原理、主観と客観の関係、感性的な直観の本当の性質について考えることで、問題を解決することができる。

ところがもう一つ別の起源をもった問題がまだ残っている。それはまったく別の、経験的なもう一つの起源をもった問題である。
われわれはたびたび夢を見る。
人生全体が夢なのではないかという疑問、夢と現実を明確に分ける明確な目印があるのかという疑問、夢が現実であるか幻想であるかという疑問がある。

夢の直観が現実の直観よりも生き生きしてないという言い方は考えに値しない。夢と現実を比較することができるのは、夢の記憶と現実だけである。

カントは「夢と現実を区別するためには、因果律に基づいた連関があるかどうかが重要だ」と主張しています。彼は、夢の中の出来事も現実の中の出来事と同様に根拠の原理に従って連関していると考えています。しかし、カントの考えには短所があり、夢と現実の間には連絡の橋が断ち切られているため、両者を区別するのはその点においてであると言い直すことができます。

われわれは夢と実際の起こったことを区別するのは困難だが、体験した出来事を単純に夢だと断言しないものだ。

現実と夢を区別する方法として、通常、経験的な目じるし、例えば「自分が目が覚めている」ことを使うことは適切でない。現実と夢を区別する唯一の目じるしは、「自分が目が覚めている」ことで、夢の中の出来事と現実の出来事の因果関係に明確な違いを感じることができる。

ホッブズの「リヴァイアサン」の第二章で行われた指摘が、夢と現実を区別することが困難であることを示している。特に、昼間の服を着たまま寝た場合や、頭がいっぱいで覚醒時と同時に夢の中に心が占領されているような状態になった場合には、しばらく後に夢を現実のように思ってしまいやすいとされる。

目が覚めていることを認識できない状態で夢を見る場合、夢と現実が混同して識別が難しくなる。カントが提示した目じるしは適用できるが、夢と現実を明確に区別することは難しい場合がある。

実生活と夢は類縁性があり、過去にも多くの偉大な人々がそれを認め、唱えてきたことである。夢は現実の世界を表すために比喩としてよく用いられている。

カルデロンはこのような考え方にいたく感動し、いくぶんか形而上学的な趣きのある戯曲『人生は夢』のなかでこの考えを表明しようとした。例えるなら実生活と一貫した夢とは、同じ一冊の本のページなのである。脈絡を辿って本を読むことが、現実生活とよばれるものにあたる。

実生活と夢は同じ本のページであり、読んでいる方法が順番に沿って連続的でなくとも、それらは同じものである。

夢は現実生活とは区別され、それを判別する方法は自分が目が覚めていることだが、夢は現実生活の一部を持っている形式的なものである。夢にも自らの連関性があるため、現実生活と同じように重要なものと言える。

夢と実生活の本質には定まった区別がなく、人生は長い夢だという詩人たちの言葉が正しいと考えられる。外部から見れば、夢は独立して存在しており、経験的な起源があるが、思考的な起源をもう一度見直した場合には、夢と実生活が結びついていることが分かる。

先述したように、根拠の原理についての誤用、主観と客観の間での適用、生成の根拠の原理と認識の根拠の原理の混同が問題の思弁的な起源であった。

外部の実在性についての問題は根拠の原理の誤用や混同が原因であり、問題の深い部分には本当の起源があると考えられる。

この問題は、過去には適切に表現されてこなかったが、私はこの問題の核心的な意味を、次のように表現することを試みる。「この直感的な世界は、私の表現だけではなく、他の何かでもあるのか?私が単に表現として意識しているこの世界は、私が二重に意識している自分の身体と同じように、一方は表現であり、もう一方は意志であるのか?」この問題をもっと明確に説明し、肯定的な答えを出すことが第2巻の内容となる。

夢と現実生活の違いは明確ではなく、人生は長い夢だと言われている。これらの解釈に基づき、本書の第3巻、第4巻でさまざまな推論が行われる。

外界の実在性をめぐる問題の起源が、根拠の原理の誤用にあったことは発見されていた。

外界の実在性をめぐるこの問題の一番深いところでなにかまっとうな思想や意味が本当の起源としてひそんでいるはずだ。
一番深いところに問題の本当の起源がある。
それを表現する際に誤ったと考えるべきだろう。

いうまでもなくそうである。 この問題は、これまで適切に表現されるすべを知らなかったが、 わたしはこの問題の一番奥にある意味、もっぱらそれだ けの表現として、次のような表現を立ててみる。
この直観的な世界は、わたしの表象であるということのほかに、さらに何であるのか?
わたしが表象として意識しているこの世界は、一方では表象であり、他方では意志であるのか。
この問題については第2巻でもっと明確に説明し、肯定的な答えをする予定である。それに基づいた推論が残りの部分、第三巻と第四巻になる。

【要約】意志と表象としての世界【第四節】

本の第四節を要約しました。

時間は、根拠の原理が形をなしているものであり、それがすべての計算と勘定の基礎となっています。このような形態化を認識することで、時間の本質を完全に理解できるでしょう。時間とは、根拠の原理が形成した形態だけで、それ以外の特徴はありません。時間の根拠の原理は継続性であり、継続性が時間の全ての本質です。

空間の根拠の原理は、部分が互いに影響し合うことの可能性を示し、それを位置と呼ぶ。空間の本質は、この位置関係であり、根拠の原理を理解することで、空間を完全に理解することができる。これは幾何学全体の内容である。

根拠の原理の形態化は、時間と空間、物質の内容を支配している。これを認識した者は、時間や空間、物質の本質を完全に理解したことになります。物質は、因果性によって存在し、働きによって空間や時間を充たします。

物質は直接の目に見える形で他の物質に影響を与え、それが直感を引き起こします。物質は、そのような直感の中だけ存在します。物質同士が影響を与え合うことができるのは、影響を受ける物質がまた他の物質に影響を与える時だけで、その結果が現れるのもそのときだけです。そして、原因と結果は物質の本質です。

物質は、他の物質に影響を与えることで、直感を引き起こします。物質の存在は、物質の働きによってのみ認識され、その本質は因果関係に基づいています。物質は相対的であり、時間や空間の内部にのみ妥当する関係に基づいています。

物質は時間と空間がないと表現できないが、時間と空間は物質がなくても単独で直観的に表現できる。物質の本質は働きかけること、因果性にあり、それは時間と空間の両者が物質の本質を決定することになる。

時間と空間は、物質などがなくても、それぞれ独立して直感的に表現することができるが、物質は時間と空間がなければ表現できない。物質が行う作用は物質の全ての存在の本質であり、必ず変化に関連し、時間の決定に関連している。しかし、時間と空間は、物質の前提だけではなく、物質の本質を決定するために両者が一緒に作用する。

因果の法則が意味を持ち、必然性を持つのは、空間と時間の一定の場所と時間における状態が変化するためである。空間と時間が相互に関係しあって、規則が存在し、変化はその規則に従って発生しなければならない。因果の法則は、時間の中での継続ではなく、空間に関連した変化を規定します。変化は、一定の場所に存在するだけでなく、一定の時間においても場所に存在します。

物質は時間と空間の特性を同時に持っている。そして、変化は時間と空間が一致していることによって起こる。物質は時間と空間を統一しなければならない。 物質は時間と空間の分割可能性を無限に持っている。

物質を通じて、時間だけでは成り立たない「同時存在」と、空間だけでは成り立たない「先後の区別」が生じることがわかる。

現実には同時に存在する複数の状態があり、それらが継続可能にすることが本質である。なぜなら、継続するものが変化する反対のものと同時に存在しているからである。また、変化するものの中にも継続するものがあるため、変化に対して性質や形態が変化すると考えられる。

空間だけの場合、世界は変化しなく、動きも継続も起こらない。時間だけの場合、すべてが不定期で、固定も同時性もなく、結果として持続もなく、物質も存在しないことになる。

空間と時間の結合によって物質が生まれ、それによって持続性が生まれ、そして状態が変化しても実体は変わらないことが分かる。

物質は、時間と空間の一体化が必要であり、それらを持っている。形態との関係から物質が空間を基礎にしていることが分かるが、移り変わりは時間に関わるため、物質は時間も必要である。これによって物質は固定不変であることが分かる。空間が確実であることから物質も確実であることが導き出される。

物質は時間と空間が一体化しているため、両者の特徴を持っている。物質が空間を基礎にしていることは形態から明らかだが、物質が時間を基礎にしていることは性質から明らかであり、それが現象を引き起こしている。性質は常に因果関係であり、他の物質に影響を与えるため、変化が起きる。この変化は時間の概念に関連しているが、その規則は空間と時間の両方に関係している。物質の状態は、因果の法則によって決定されている。

物質の根本規定は、自然に存在することを基礎としている。そして、この基礎から、物質には不可入性、延長性、固定性、可動性などの特性があることがわかる。ただし、重力はどの物質にもあるが、これは後天的な現象だと考えられる。しかし、カントは「自然科学の形而上学的基礎論」で、重力を自然に存在するものとして捉えている。

客観は、主観の表現として存在し、それぞれの表現は主観の限定された能力と対応している。時間や空間も、主観の限定された能力と対応している。カントはこれを純粋感性と呼んだ。

客観は主観の表現であり、主観に対応して存在する。 特定の表現は、主観の限定された作用に対応して存在する。 時間と空間、そして物質と因果性は、主観の側に相関して対応している。それらは感性であり、悟性は因果性を認識することであり、それが悟性の唯一の機能である。 すべての現実は悟性に対応し、悟性を手段として、悟性の内部に存在している。

悟性は、現実世界を直接認識することで表され、それは結果から原因を認識することに基づいている。しかし、原因を認識するための直接の出発点は身体の反応であり、それがなければ直観は不可能である。そのため、身体は、主観にとっての直接の客観であり、他の直観はそれによって媒介される。

動物の身体が体験する変化は、直接的に認識され、つまり知覚されます。この結果が直接的に原因に関連付けられることで、その原因は直接的に視覚化されます。この関係は抽象的な概念を使用した推論ではありません。反省によって起こるのでも、恣意的に起こるのでもありません。この関係は直接的で必然的で確実です。

動物的な身体の経験する変化が直接的に認識され、知覚されることによって、その原因が客観的に直接直観される。この結果Wirkung(作用、働き)がただちに原因に関係づけられることによって、その原因は一つの客観として直観されることになる。この関係は直接的で、必然的で、確実である。これは純粋悟性の認識方法で、純粋悟性がなければ直観は成立しない。直接の客観(身体のこと)の受けた変化についての植物的な意識が残るだけである。

悟性によって、知覚される変化が直接的に原因と関係づけられることで、世界が直観される。この直観は、動物的な身体を通じて媒介され、純粋悟性に基づく。純粋悟性がなければ、世界は直観することができない。直観される世界は、時間や空間に基づき、物賡として永続する。この世界は、悟性によって存在し、また悟性に対しても存在する。

私は「視覚と色彩」という論文の1章で、悟性が感覚データから直観を作り出すことを論じました。子供が直観を学ぶのは、複数の感覚から得られた印象を互いに比較することで、そしてこの方法だけが多くの感覚現象を説明できます。二つの眼で見ても物が一つしか見えないこと、視点を変えると物が二重に見えること、その他の感覚器官の変化が引き起こす錯覚もこの方法で説明できます。

著者は以前に、視覚と色彩についての論文で、感覚データから悟性が直観を作り出すことについて詳しく論述した。子供は直観を学ぶために、さまざまな感覚から受けた印象を比較し、多くの感覚現象を説明することができる。ただし、著者は自分が書いたものを引用するのを嫌うため、この論文で同じことを再解説する代わりに、以前の論文の参照をお願いする。

子供たちが見るのを学ぶため、手術で眼が見えるようになった人が見るため、二つの眼で見たものが一つに見えること、感覚器官が通常の位置からずれたときに一つのものが二つに見えること、色彩は眼の働きによるものであり、外部の対象にあること、立体鏡を使うことができることなどを証明している。

すべての直観は感覚的ではなく知的であり、それは結果から原因を悟性的に認識することである。それは因果律を前提としている。すべての経験は、最初かつ全体的な可能性から考えられ、因果律の認識に依存している。これはヒュームの懐疑主義とは異なる主張である。

因果性の認識は直観の中に含まれており、すべての経験は直観の領域にあります。また、因果性の認識は完全に独立しており、経験から前提条件とされており、経験を前提としていません。これを証明するためには、『根拠の原理について』第二十三節に詳細に説明した方法および、カントが試みた方法では説明できない。

【要約】意志と表象としての世界【第三節】

本の第三節を要約しました。

人間には直観的な表象と抽象的な表象の二つの種類があると考えられる。抽象的な表象は、一つの種類だけであり、それが概念である。人間だけが概念を持っており、その能力は理性と呼ばれ、人間を他の動物と区別してきた。次の章では、詳細に概念について説明しますが、今は直観的な表象について話します。

すべての表象には、直観的なものと抽象的なものがあります。抽象的な表象は概念で、人間だけが持っている能力で、これを理性と呼んでいます。今回は直観的な表象について考えましょう。直観的な表象は直接視ることができる世界全体や経験の総体を指し、それには経験の可能性に関する条件も含まれます。

直観の普遍的な形式(時間と空間)は、経験から独立し、直観的で数学的に理解可能である。カントは、この直観形式には、経験を規定する因果性や動機づけの法則が存在することを発見した。この原理は時間の継続性、空間の関係を表している。

根拠の原理は、どんな形態であっても、その内容は同じです。最も単純な形態である時間を認識することで、その本質を理解することが重要です。

時間は一瞬がすぐに過ぎ去り、過去と未来は実際には不確定です。現在こそが唯一の現実であり、時間はその無限の境界線である。同様に空間も虚無的であり、すべてのものは相対的な存在であり、他のものに依存して存在しているだけです。

「すべてのものは相対的であり、他のものや似たもの、同じように成り立っているものに依存しなければならない」 という考えは古くから存在しました。古代の哲学者 Heraclitus はこの考えによって、万物が永遠に変化し続けることを悲しんだ。この考えに対して Plato は、常に生成するが存在しないものを軽視し、Spinoza はそれを唯一の永続的な実体「偶然」と呼びました。Kant はこの考えによって認識されるものを現象だと見なし、物自体に対立しました。

インド古代の聖人たちは、世界が人間の目を通して見せられる虚偽の幻影であり、欺瞞(ぎまん)の面紗(女性が顔をおおう薄絹。 ベール。 )であると言っていました。彼らは、世界はあるかもしれないしないかもしれないと述べ、旅人が遠くから見ると水かもしれないし蛇かもしれないと例えています。このような考えは本書が扱っている「根拠の原理に従った表象の世界」と関連しています。