【要約】意志と表象としての世界【第七節】

本の第七節を要約しました。

第七節

これまでの考察では、表象から出発し、客観と主観の両方を含んでいます。時間、空間、因果性は客観に属しますが、主観にも関係があるので、アプリオリに認識できます。これらは主観と客観の共通の境界です。
従来の哲学は、客観か主観から出発していましたが、われわれの考察は、根拠の原理を客観だけに適用し、客観と主観の関係には適用しないという新しい方法です。
同一哲学は、客観と主観の対立に関与せず、理性=直観で認識される第三の絶対者を出発点とします。しかし、ショーペンハウアーは理性=直観を持っておらず、同一哲学の立場は完全には理解できないと言っています。

この哲学は主客の同一性から始まり、二つの部門に分かれます。一つ目は先験的観念論で、主観から客観を作り出します。二つ目は自然哲学で、客観から主観を生み出します。しかし、この哲学は二つの誤謬を避けられず、両者を結びつけています。
さまざまな哲学は客観から始まり、物質や概念、時間や意志を基本要素としています。例えば、唯物論は物質を基本要素とし、因果律を使って進んでいきます。しかし、唯物論は最後に認識能力に達し、それが物質の一変容に過ぎないことが分かります。
物質や認識の問題を考える時、主観と客観の両方を考慮することが重要です。唯物論者は馬に乗って泳ぐ人のように、自分の力で全てを説明しようとしますが、それは正しくありません。

唯物論は、すべてのものを物質で説明しようとする考え方です。しかし、これは簡単にはできません。物質は私たちの頭の中で考えられるだけで、実際には主観的な認識によって制約を受けています。これは、物質は私たちが考えるよりも複雑で、すべてのものを説明することが難しいということです。
唯物論では、物質や元素を絶対的に存在するものとして考えますが、実際には主観の認識によって影響を受けています。物質は時間や空間などの形式を通して、私たちに与えられます。しかし、これらはすべて相対的に存在するだけで、絶対的なものではありません。
科学は、世界の本質には触れられないため、唯物論を完璧に実行することはできません。科学は表象にとどまり、表象と表象の関係を知ることしかできません。それぞれの科学は、独自の問題と原理を持っており、それらを通じて知識を得ていくのです。

自然科学は物質と因果の法則を扱い、物質の状態を理解しようとします。化学は元素を調べ、生理学は人間の体を調べる分野です。自然科学は物質を最初の化学的状態に還元しようとしますが、それは困難です。化学者は元素の数を減らそうとしていますが、無限に進むことは難しいです。また、有機物を化学的なものに還元するのも困難です。自然科学は唯物論ですが、主観がなければ客観はないという命題により、唯物論は問題があります。自然科学は物質を理解するために努力していますが、困難が多い分野です。

物質は時間の中で段階的に進化していきます。最初に無機物があり、次に植物、魚、陸生動物、人間と現れました。最初の認識する動物が登場したとき、世界全体の存在がはじめて認識されました。しかし、その動物も、前の物質や生物の因果関係に依存しています。
この話には二つの見方があり、どちらも必然的で、矛盾しているように見えます。一つは、世界の存在が最初に認識する動物に依存しているという見方。もう一つは、最初の動物も長い因果関係の鎖に依存しているという見方です。
この矛盾は、時間や因果関係が物自体にはなく、現象に属していると考えることで解決できます。つまり、世界は表象としての外的な側面だけでなく、物自体という内的な側面も持っています。この物自体の側面を、意志と呼ぶことができます。

私たちが認識する世界は、表象の世界であり、最初の認識が始まるときから存在します。認識がなければ世界も時間も存在しません。しかし、時間は始まりを持っているわけではありません。時間は因果性と関係し、過去と未来の両方に無限に広がります。最初の現在と過去は、認識する主観に依存しています。
クロノスはギリシア神話の時の神で、始源を持たない時間を表しています。彼は父を去勢し、神々と人間の時代が始まりました。私たちが見る世界は、主観と客観が密接に関連し合っています。真の世界の本質を理解するためには、主観と客観のどちらかではなく、別の要素を見つける必要があります。
主観から客観を生み出す哲学もありますが、フィヒテの哲学はその逆で、主観から出発して客観を生み出そうとします。しかし、彼の哲学は真の価値や内容が乏しく、詐欺にすぎないとされています。

哲学者は、混乱に出会い、それを解決しようとする人です。本物の哲学者は世界そのものを見て混乱しますが、偽の哲学者は本や理論から混乱します。哲学者フィヒテはカントの考えに興味を持ちましたが、彼は主観から出発することに重きを置いてカントの考えを十分理解できませんでした。カントの考えでは、根拠の原理は絶対的な真理ではなく、現象にだけ当てはまる相対的なものです。客観と主観は、一方がもう一方に依存する関係であり、どちらも完全に相対的です。物自体や世界の本質は、主観や客観のどちらでもなく、関係性の外部に求められるべきです。

フィヒテの哲学では、永遠の真理が世界の根拠となり、自我が客観の根拠となっています。古代の唯物論は客観から始め、フィヒテの哲学は主観から始めますが、どちらも相手を前提としています。フィヒテは、自我が客観を生み出す原理に名前を付けていないが、それは空間の存在の原理と言えるかもしれません。彼は根拠の原理が客観の形式であることを見落としています。主観と客観は相関関係にあり、どちらも相手を前提としているため、一方から始めることは難しいです。この話は小学生にもわかりやすいように、フィヒテの哲学は自分と世界の関係を考える方法で、自分から世界を理解しようとしていると説明できます。

本書では、主観と客観から出発せず、表象を出発点にしています。表象の基本形式は主観と客観への分裂であり、客観の形式は根拠の原理です。時間、空間、物質、概念はそれぞれ特定の部分を支配し、表象としての世界は全面的に相対的です。これは別の世界の側面を求めるべきことを示唆しています。
人間だけが持つ表象の部門は概念であり、相関物は理性です。これは悟性と感性と似ていますが、悟性や感性はすべての動物に備わっていると考えられます。