counter_casheをリセットする
counter_casheを使ってPostに紐付くCommentの数をDBカラムに保存するように修正した。
PostにCommentが追加/削除されたらCommentの数が変更される。
class Comment < ActiveRecord::Base belongs_to :post, :counter_cache => :comments_count end
上記の変更を反映させるために、
すべてのPostについてCommentの数を再計算してカラムに保存する以下のスクリプトが必要になった。
Post.find_each do |post| Post.reset_counters post.id, :comments end
参考:
親父の宝くじ
親父が買った宝くじを掃除の最中に母が見つけた。
母は趣味の一環として微笑ましげだった。
もうすぐ還暦になる親父と飲んだ。
親父の会社は機械の部品を作っている製造業であるが、80代の会長が保守的で、赤字が見込まれ先がない製造業を廃業して隠居したいらしい。
ただ、従業員も少なからずいるため、経営陣のひとりである親父は、会長を説得して廃業を回避させたいが、一介のサラリーマンである親父には会長から会社を買い上げるだけの金はないため、会長に従わざるをえない。
飲みの中で、親父としてはその宝くじが当たれば、会長から独力して会社を立て直そうというつもりだったことを話した。
ただの宝くじに、親父の切ない希望がこめられていたことを知り、少し悲しくなった。
時間が凝縮されたもの
かなり前、2011年くらいに広告界就職講座を受講したときの講師にいらしていた
吉良俊彦さんが本*1を出している。
当時は講義の内容をハラオチできていなかった。
本は読んでないけど推測する本の内容と似たようなことを最近よく感じる。
巨人の肩に乗る。
自分ではない誰かが時間を使って作ったもの(道具、知見、作品、考え方、歴史、作法、など)に、自分が上手に利用したり乗っかっていくことで、大きな効果を得ることができる、ということだと思う。
極力、車輪の再発明はせずに、他人のふんどしで相撲を取っていく、と言ってしまうと言い過ぎになるが、なんでもかんでも独力でやろうとせずに、人の知見や成果物を上手に自分が利用していく、ということなんだと思う。
もちろん、自分の頭で考えて取捨選択はしていかなきゃだめだけど。
当たり前と言えば当たり前なことだ。
周りを見て、何があるのか、何が起こっているのか、という状況分析、
マーケティングのチカラが本当に重要なんだな。
分子科学の行き着く先
分子科学(化学)の目的は、
現象の時間的および空間的な観測と制御にある、
とアカデミック方面に進んでいる旧友が言っていた。
なるほど。
どのようなしくみで起きている現象かを突き止めて明らかにして、
その仕組みを利用して、コントロールする。
感想
よくわかってないことがまだたくさんあるということでしょう。
よくわからないことがあるかぎり研究者の仕事はなくならないのでしょう。
上手に制御できないものがあるかぎり研究者の仕事はなくならないのでしょう。
余談
じゃあ、システム屋さんの目指すものはなんでしょうね。
- お金を稼ぐこと?
- 人の豊かな生活を実現すること?
- 課題を解決すること?
- めんどくさい作業を機械化すること?
- できないことをできるようにすること?
いろいろあって時と場合によって違ってくるのでしょう。
自分の中ではどの目的がしっくりくるかな・・・
触媒
目的と手段がある。
よく混同される。
目的=手段
となることはあるのか。
IT屋なので、システムを例にとる。
ユーザが使うことで、開発者のある目的を実現するアプリがあるとする。
開発者はある目的を実現するための手段としてアプリを開発した。
ユーザはそのアプリを使うのが楽しくてそのアプリを使う。
ユーザはそのアプリの存在を知り、使わずにはいられなくなり、
使うようになり、使うことが楽しくて、使い続ける。
そのアプリの存在自体が、開発者の目的を実現する。
これはまさに触媒ではないだろうか。
上の前提があるならば、そのアプリを作成し、世に解き放った時点で、
目的を達成していると言うことはできないだろうか。
手段そのものが目的である、とは言えないだろうか。
アプリのイメージは光る玉。バチバチしている。
その光る玉を生み出し、世に解き放つことが、
目的を達成することと同値なのではないだろうか。
ユーザとしてはどうしようもなく、使ってしまう光る玉をつくることができれば、
それは目的を達成したも同然なのではないか。
そんなことを考えた。
そんな光る玉をつくることが難しいということか。
『夜と霧 新版』抜粋と感想
昔に書いた感想文が出てきた。
みすず書房 ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 『夜と霧 新版』 より抜粋
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避けられない運命と、苦しみを受け入れるとき、きわめてきびしい状況でも、また人生最後の瞬間においても、生を意味深いものにする可能性がある。苦渋にみちた状況ときびしい運命がもたらした、おのれの真価を発揮する機会を生かしたか、あるいは生かさなかったか。人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問の前に立っていることを思い知るべきなのだ。 生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。 わたしたちはその問いに答えを迫られている。 考えたり言葉を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。 生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を果たす義務を引き受けることにほかならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。 したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。 ここにいう生きることはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。 この具体性がひとりひとりのたった一度、ほかに類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。 だれも、そしてどんな運命も比類ない。
どんな状況も二度繰り返されない。 そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。
すべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象する。そのたびに問いに対するたったひとつの、正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。 具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。 人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
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[感想]
・最悪な状況でも、やりようはあるということ。
・生きる意味は抽象的な概念ではなく、とことん具体的なものである
・自分なりにベストを尽くすことは極限状態でなくても、いつでもやろうと思えばできる。
・「その一瞬一瞬をどう生きるか」で生きていることの意味が決まる。
・「生きる意味」は、「どう生きるか」にかかっている。